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タイトル: L'avènement du sujet chez Lévinas : la méditation sur la dialectique de l'il y a dans son retour et de l'hypostase dans sa différenciation
その他のタイトル: レヴィナスにおける主体の到来 : その回帰における<イリヤ>とその分化における<実詞化>が織り成す弁証法についての省察
著者: Suenaga, Eriko
著者名の別形: 末永, 絵里子
発行日: 8-Dec-2015
出版者: 京都大学文学研究科宗教学専修
誌名: 宗教学研究室紀要
巻: 12
開始ページ: 24
終了ページ: 61
抄録: 本研究の目的は、初期レヴィナスにおける〈イリヤ〉・〈実詞化〉という二つの主要モチーフの意味を、それらの相互性ないし弁証法という構図の下で明らかにすることにある。二つのモチーフを主題化する際にレヴィナスが採用した方法の「本質的な原則」とは、「イリヤの中断」の瞬間(努力の瞬間や微睡の瞬間)を明るみに出すべく、それと対をなす「イリヤの回帰」の瞬間(疲労の瞬間や不眠の瞬間)にまず身を置くこと、その上で、「瞬間」そのものの成り立ちをそこで探り、純粋な動詞的働きの只中で名詞的なものが立ち上がるという出来事を感知させる、或る「弁証法」をそこから探し出すことである。従来のレヴィナス研究では、初期レヴィナスの思索は、〈イリヤ〉・〈実詞化〉という術語それ自体のインパクトゆえに、「存在することの禍悪」/そこからの逃走の条件である「存在への定位」――さらには、「存在することの禍悪」/そこからの逃走の成就である「存在の彼方の善への運動としての他人との関係」――といった二元論的枠組みの中で捉えられがちである。しかし、そこで遂行されている方法の、遂行上の「原則(principe)」という観点から言えば、事はそう単純ではない。レヴィナス自身はむしろ、二項対立とそれらの止揚(廃棄と保存)が問題になる弁証法的枠組みの中で、〈イリヤ〉・〈実詞化〉とのちに表現される、二つの対照的な出来事を炙り出そうとしていた。しかも、これらを析出する分析の着手点となる、両者の止揚ないし総合という契機において、この分析は、「体験反省」の形でフッサールの構成的現象学と接点をもつ。その限りで、初期レヴィナスの思索は、超越論的反省という西洋近代哲学の主流を逸脱するものではない。むしろ、「意識の分析」というフッサールの手法を受け継ぎつつ、その手前と彼方の出来事(意識の出現とその消滅)へと張り渡されたものである。本研究は、従来のレヴィナス研究において見過ごされてきた、「弁証法」という初期レヴィナスの思考法に光をあて、「無限の観念の現象学」という名を冠されることになるレヴィナス現象学が、どのように始動したかを描き出そうとしている。なお、「方法論的二元論」に潜む問題を補正する手段としての dialectique は、弁証論(とくに二律背反論)のカントのみならず、初期リクールが『意志の哲学:第一部 意志的なものと非‐意志的なもの』(1950)の中で採用したものでもある。「意志的なものと非‐意志的なものの弁証法〔または相互性〕」というリクールの定式が、それを物語っている。本研究では、〈同〉と呼ばれるレヴィナス的自我の視点から、「イリヤの回帰」の瞬間の只中で探し当てるべき弁証法を、「その回帰における〈イリヤ〉とその分化における〈実詞化〉の弁証法」と規定している。さらに、「瞬間」に内在するこのダイナミックな弁証法を、「実詞化におけるイリヤの回帰と実詞化によるイリヤの中断の(同一の瞬間における)ドラマティックな二元性」と定式化している。レヴィナスの狙いは、この「内的な弁証法」を通路として、二元性を孕む「瞬間」の根底で蠢いている第三のもの、「イリヤという非人称的出来事」(唯我論的倦怠や匿名的覚醒)へと接近し、これと厳密に対立する限りでの「実詞化という出来事」(非人称的存在への跳躍としての働きや匿名的実存からの撤退としての眠り)を取り押さえることにある。弁証法的性格をもつ初期レヴィナスの方法の第一の意義は、持続を切断する点として、いわば上空からのみ見られていた「瞬間」について、記述者が自ら急降下し、この点を頂点とするような放物線を描く運動として、中空と地上からその全貌を捉え直すことにある。この立体的把握によって、「瞬間」にそのドラマティックな出来事性を取り戻させることにある。それは、既に名をもつ実存者と匿名的実存との「間」を形成している「実存者の実存」を、世界の内で見失われている「存在論的差異」を、ドラマティックな出来事性をもつひとつの場面として再現することを意味する。第二の意義は、延長実体として世界の出来に先んじて出現する限りでの「身体」の身体性(空間性/局所性)を、各々の場面の演出、要するに見せ方を通して明示すると同時に、感性的存在として世界の内で生存する限りでの「身体」の身体性(外部露呈性と内部隠遁性の同時生起的な二重性/内世界性)を、諸々の場面の連鎖によって分節化することにある。「主体の到来」を見せ場とするレヴィナス現象学の第一幕は、徹頭徹尾、身体の問題系に貫かれている。本研究の枠を超えて付言するなら、本研究は、以下に示すような、より広範な探究の一部を成している。それは、「無限の観念の現象学」として結実するレヴィナス現象学の全体を、或る劇場空間で上演される、全五幕から成るひとつの劇作品(ドラマ)として再構成する試みである。同時に、そこで遂行されている現象学的方法の全貌を、劇場型筋立てによる劇場型上演(lamise en scène théâtrale selon la mise en intrigue théâtrale)とも言うべき、一種の劇作法(ドラマトゥルギー)として説明する試みである。実際、開幕直前のベルや幕間、舞台転換、閉幕後のカーテンコール等、舞台上で繰り広げられる場面以外の出来事まで、このドラマの構成要素として組み込まれている。主人公は、「生ける意志の〔生ける/死せる〕意欲(le vouloir [vivant/mort] de la volontévivante)」である。これが、素朴な思惟として、現象学的反省の対象となる。ゆえにこの劇場空間は、フッサールの表現を借りれば、体験領圏としての「心情および意志の領圏(la sphère affective et volitive)」という意義をもつことになる。この演劇特有の筋は、レヴィナスの表現を借りれば、現象学する者が探し求め、呼び戻すべき、人間的なものとしての「人間的ないし間‐人間的筋(l' intrigue humaine ou interhumaine)」という意義をもつことになる。なお、開演を告げるベルから第一幕への移行は、「意志の身体性」をめぐるレヴィナスの記述から、その手前を成す「身体の身体性」をめぐる彼の記述への遡行に対応している。第一幕の上演を通じて分節化される、感性的存在として世界の内で生存する限りでの「身体」の身体性は、実は、心情および意志の領圏に帰属する限りでの「自我」の自己性に相当する。フッサールの純粋自我に対するレヴィナスの身体的自我こそ、諸々の感覚作用(sensations)と諸々の意志作用(volitions)を束ねる磁極となる主体である。これらの作用がそこから発してそこへと繋がれるレヴィナス的自我の自己性を、第一幕は予示しているのである。第二幕以降で記述されるこれらの作用(cogitationes)は、リクールの現象学研究をふまえて言えば、この自我の自己性が顕在化する諸々の仕方、「形相としての我(l' eidos ego)」が解意される諸々の様式に他ならない。そこでは、形相としての我思う(l' eidos cogito)の意味を解明する手がかりとなるような、自我の活動様式の一定の型が認められるが、これもやはり、形相としての我を基にしている。その意味で、「主体の到来」を、主役たる身体的実存(身体および身体的自我)の登場として観客に披露する「無限の観念の現象学」第一幕は、レヴィナス現象学の序幕に相応しい位置を占めている。
DOI: 10.14989/202531
URI: http://hdl.handle.net/2433/202531
出現コレクション:vol. 12

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