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asia16_43.pdf | 681.38 kB | Adobe PDF | 見る/開く |
タイトル: | <論文>義認と公共 --金泰昌の「公共哲学」とマルティン・ルターの「信仰義認論」の対話-- |
その他のタイトル: | <Articles>Justification and the Public: With Special Attention to Martin Luther's Doctrine of Justification and Taechang Kim's Public Philosophy |
著者: | 金, 珍赫 神山, 美奈子 |
著者名の別形: | KIM, JinHyok KAMIYAMA, Minako |
発行日: | Mar-2018 |
出版者: | 「アジア・キリスト・多元性」研究会 |
誌名: | アジア・キリスト教・多元性 |
巻: | 16 |
開始ページ: | 43 |
終了ページ: | 58 |
抄録: | 本研究は、「公共する」の観点から、マルティン・ルターの神学を新しく解釈しようとする試みである。近代神学者や政治哲学者は、「神の王国」と「世俗の王国」を区分するルターの理論が個人倫理と社会倫理を分けることで信仰の私事化(privatization)を持つと批判する。しかしこのような読解法は、現代政治哲学の近代性、あるいは「公論場」概念に照らし合わせてみる時、ルターを脱歴史的にアプローチした結果、彼の神学の中に内包されている「公共すること」の価値を見逃す危険性がある。本論文は、公共性を名詞として規定する傾向が強い既存の西欧思想家に代わり、東アジア的な文脈から公共哲学を展開する金泰昌の理論に助けられながら、キリスト者の公共的実存が何かをルター神学を通して再発見しようとする。金泰昌は漢字文化圏における「公共」とは、元々「他者」を活かすことによって「公」の領域を新しく拓いて行く「活私開公」の活動であると定義する。「公共性」を名詞ではなく動詞あるいは活動として見ると、「神の前に立っている存在」(coram deo)であると同時に、「他者の前に立っている存在」(coram hominibus)としてキリスト者の実存を強調するルターの「信仰義認論」(以信得義論)に込められた公的な性格を新しく発見することができる。自然法を具体的な状況に合わせて解釈する理性の活動、他者のための自発的、代理的な苦難などは、ルターの神学において地上の王国で生きるキリスト者が公的な生を構成して行く愛の具体的な形態であると言える。 |
DOI: | 10.14989/232929 |
URI: | http://hdl.handle.net/2433/232929 |
出現コレクション: | 第16号 |
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