ダウンロード数: 444

このアイテムのファイル:
ファイル 記述 サイズフォーマット 
shirin_064_1_37.pdf1.21 MBAdobe PDF見る/開く
タイトル: <論説>唐の南衙と北衙の南司と北司への推移
その他のタイトル: <Article>Transition from South Ya 南衙 and North Ya 北衙 to South Ssu 南司 and North Ssu 北司 in the T'ang Period
著者: 曾我部, 静雄  KAKEN_name
著者名の別形: Sogabe, Sizuo
発行日: 1-Jan-1981
出版者: 史学研究会 (京都大学文学部内)
誌名: 史林
巻: 64
号: 1
開始ページ: 37
終了ページ: 58
抄録: 唐の天子を直接に護衛する任に当たる近衛兵は、南衙と北衙の兵であって、南衙は諸衛の兵であり、北衙は禁軍と称せられる兵であった。これを何故に南北衙と称するかと言うに、唐では都城長安の北壁に接して宮城が在り、この宮城の前、即ち南側に皇城が存在し、宮城の後、即ち北側に禁苑が存在したが、諸衛の兵営は、中央の諸官庁と共に南側の皇城内に在り、禁軍の兵営は、北側の禁苑内に在ったから、かく称するのである。この南北衙の近衛兵も、時代が降るに従って、次第にその制度が崩れたり変化して、南衙の兵は姿を消し、北衙の兵は神策軍の一つにまとめられるようになった。しかもこの神策軍は宦官の指揮下に入り、その走狗となって働くのであるが、このように南北衙が変化した後は、南衙には諸官庁の文官達は残っていることとて、これを南司と言い、北衙に残っている神策軍は、これを北司と言ったが、又神策軍は宦官に指揮されているところから、宦官そのものをも、北司と称するようになった。
The imperial guards for the Emperors in the T'ang period was consisted of South ya and North ya. South ya was called the Various Wei (諸衛) and stayed at south of the palace. North ya was called the Chin army (禁軍) and stayed at north of the palace. However, this guard system had been gradually deformed or disappeared as time passed. Toward the end of the T'ang period, South ya was completely disappeared and only civil officials remained and North ya joined to the Shen ts'e army (神策軍) under the control of the eunuchi (宦官) . After this change of the guard system, South ya was called South Ssu and North ya was called North Ssu.
記述: 個人情報保護のため削除部分あり
DOI: 10.14989/shirin_64_37
URI: http://hdl.handle.net/2433/238599
出現コレクション:64巻1号

アイテムの詳細レコードを表示する

Export to RefWorks


出力フォーマット 


このリポジトリに保管されているアイテムはすべて著作権により保護されています。