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タイトル: 解説: 現代ドイツ神学への一視角
その他のタイトル: Eine Perspektive für die Systematische Theologie in Deutschland heute
著者: 岡田, 勇督  KAKEN_name
著者名の別形: OKADA, Yusuke
キーワード: ここに訳出したのは、上述の穴を埋めるような以下の総説である。Dirk Evers, “Neuere Tendenzen in der deutschsprachigen evangelischen Dogmatik”, Theologische Literaturzeitung 140 (1/2), 2015, S.3 22.
発行日: 29-Mar-2024
出版者: 京都大学キリスト教学研究室
誌名: キリスト教学研究室紀要
巻: 12
開始ページ: 81
終了ページ: 87
抄録: 本翻訳は近年ドイツ語圏のプロテスタント神学で行われている様々な議論の潮流を概観する総説であるが、箇所によってはかなり込み入った議論がなされているところもある。ここでは簡単に議論を要約することによって、本論を読む際の手引きをすることにしたい。エーヴァース氏によれば、近年の議論は大きく三つ ----自由主義神学、解釈学的神学、形而上学的宗教哲学に分けることができる。そして、これらがそれぞれ一人称、二人称、三人称の観点において神学を展開する立場であると分類している。第一の立場として挙げられるのは、19世紀にシュライアマハーからトレルチあたりまでの理論形成によって成立したリベラル・プロテスタンティズムの後継となるような自由主義神学・学問的神学である。20世紀後半に解釈学的神学、パネンベルク、モルトマンらの三つ巴がそれぞれの方法でバルト神学と向きあおうとした一方、自由主義神学の潮流はシュライアマハー・ルネサンスやトレルチ・ルネサンスなどのようなかたちで19世紀の古典的な思想家を再評価するクラシックな方法で道具立てをそろえていった。本論では第一の立場の古典的な理論的表現形式として主観性理論Subjektivitätstheorieという用語がしばしば登場するが、これはまさにカント以降の超越論的な主観性(シュライアマハー的にいえば<端的な依存感情>、あるいはトレルチ的にいえば<宗教的アプリオリ>のなかに人間の宗教性の根源を認めようとする宗教理論である。この反省的主観性において、人間は世界を宗教的に解釈deutenすることができる。このような意味で、本論では第一の立場が<一人称>において組織神学を展開する方向性であると整理されている(<私>のなかに現出する宗教性)。しかしエーヴァース氏の説明するところでは、近年の議論はこのような狭い意味での主観性理論を越えて、文化学におけるより広い文脈において<宗教>を探求する方向へと議論が移っている。そこで問題になるのは、例えば宗教についての言説理論Diskurstheorieと呼ばれるものであり、これは組織神学と宗教学Religionswissenschaftが交差する論点となっている。宗教という概念はヨーロッパで成立したものであり、そのなかには他宗教に対してキリスト教の優位性・絶対性を証明するためのヨーロッパ中心主義的なイデオロギーが埋め込まれているといういわゆる宗教概念批判は、宗教という一般概念に立脚して理論を展開しようとする自由主義神学の立場にとっての挑戦となっている。また、宗教現象をより広い文脈において捉えようとするなかで欠かせない自然科学との対話、特に認知科学的・進化生物学的なアプローチがどのようにかかわってくるのかも、重要な論点として紹介されている。第二の立場としては、20世紀後半の三つ巴の時代から比較的直線的に発展してきたといえる解釈学的神学の立場が挙げられる。第一の立場が主観性の自己解釈という形で一人称の宗教概念を基礎にする一方で、第二の立場は人間に<二人称>的に相対する神(人間にとっての「あなた」としての神)が問題になる。この解釈学的神学にとって重要な道具立てとなるのは、本論でも繰り返し論じられているとおり〈言葉の出来事〉による実存の転換であろう。ブルトマンが論じたように、神学において重要なのは聖書に書かれている客観的な情報(たとえば世界が6日で創造されたこと)ではなく、それを読んで解釈・理解することによって人間実存に変化がもたらされる実存論的解釈である(たとえば<創造>という考えによって自分の世界の見方が一新されること)。ここで紹介されている最近の解釈学的神学も、さまざまな切り口からこの基本モチーフを展開することを試みている。紹介されている具体的な論者のなかで、すでに古典的な地位を獲得しつつあるといっていいのはインゴルフ・ダルファートIngolf Dalferth(1948-)であろう。日本でも比較的知られているダルファートは、ユンゲルの次の世代における解釈学的神学の論客として旺盛に論考を発表してきた神学者である。なかでも、本論でも触れられている『ラディカルな神学』(2010)は解釈学的神学者としてのダルファートの基本ラインを伝える基礎文献といっていい。本論ではまたその次の世代として、フィリップ・シュテルガーPhilipp Stoellger (1967-)やハートムート・フォン・ザースHartmut von Sass(1980-)などの比較的若い世代まで紹介がなされている。さらに、以前の解釈学的神学が人間同士のコミュニケーションという言語的な解釈モデルに拘り過ぎてしまった点を指摘し、それを乗り越える展開として、近年広げられている図像解釈学の議論などにも紹介の手が広げられている。第三の立場としては、アングロサクソン圏の分析形而上学の方法論を取り入れた形而上学が挙げられている。一般的に、ドイツを含めたいわゆる大陸系の思想が、カントを境として<神の存在証明>などのような自然神学の伝統的議論から離れていくのに対し、英米系の宗教哲学は分析哲学の方法論を取り入れながらそれを現在まで保持・発展させてきているという見取り図が大まかな前提として存在する。このような一般的傾向に対して、この第三の立場はドイツという大陸の伝統にありながら分析系の方法論を取り入れることによって、「究極的な問いに対して理性による解答を与える試み」として組織神学の立場を構想しようとしている。この立場にとっては、神などの超越は理性的推論によって扱われる客観的な認識対象であり、そこには第二の立場が要求するような人間の実存は介在しない(例えば、私の実存如何にかかわらず、2024年の時点においてドイツの首都はベルリンである、ということが客観的真理であるように)。その意味でこの立場は<三人称>において、すなわち人間の認識から独立した客観的存在としての<それ>としての神について語るものと位置づけられている。この立場がおもに展開される代表例として本論文で取り扱われるのは、叢書「コレギウム・メタフィジクム」と、その編集主幹のひとりであるフリードリヒ・ヘルマニFriedrich Hermanniの宗教哲学『形而上学 --究極的問いへの試論』である。英米圏における宗教哲学の教科書的トポイともいえる<神の存在証明>や<悪の問題>に加え、<心身問題>や<宗教多元性>などのテーマを扱いつつ、ヘルマニはいわゆる分析哲学的な手法を中心とし、かつ古典的な思想家を道具立てとして用いる形で、みずからの宗教哲学を展開してゆく。そのさい特徴的といえるのは、分析哲学の手法を用いるといっても単に英米圏の議論の枝葉を後追いするのではなく、いわゆる大陸圏の古典的思想家にかんする議論を大胆にそこに組み込んでゆく姿勢である。のちにもすこし触れるように、いわゆる大陸系と分析系がそれぞれの蛸壺に閉じこもるというありがちな傾向に対して、現代ドイツの哲学ではその区別を取り払って両者を大胆に融合するような傾向が見られる。第三の立場であるこの形而上学神学もその流れに棹さしつつ、自らのスタイルを追求しているということができるだろう。
DOI: 10.14989/287789
URI: http://hdl.handle.net/2433/287789
関連リンク: https://sites.google.com/site/kyotouchristianstudiesreports/home/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E5%AE%A4%E7%B4%80%E8%A6%81
出現コレクション:第12号

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