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タイトル: | Ehrfurcht und Verantwortung Zur neuen Ethik des Menschen mitten in seiner Umwelt |
その他のタイトル: | 畏敬と責任 環境における人間の新しい倫理のために |
著者: | ISHII, Seishi |
著者名の別形: | 石井, 誠士 |
発行日: | 1992 |
出版者: | 京都大学医療技術短期大学部 |
誌名: | 京都大学医療技術短期大学部紀要. 別冊, 健康人間学 |
巻: | 4 |
開始ページ: | 29 |
終了ページ: | 38 |
抄録: | 近代の人間の在り方に一番欠けており, 現代の個人と社会とのあらゆる問題が, その人間の在り方から生じる, と言わねばならない一つのことがある。 それは, 畏敬と責任の姿勢である。 つまり, 私があり, 私と共に汝があり, この私たちを在らしめている世界とその中の無数の存在者の関わり合いがあるということ, これは, 私たちが意のままに変革したり, 操作したりできない事実である。 それは, 私たちがそれに対し畏敬の念を抱き, また, 責任の意識をもつものである。 例えば, 私たちの身体や家族, 共同体や環境は, こういう存在の性格を有する。 科学と技術との文明が近代の社会を創ってきた。 しかし, 私たちが, 生きていること, 共に生きていること, そして, 共に生かされて生きていること, この私たちの生命の存在の真理は, 科学と技術の思惟とは違った一つの別の思惟において, 初めて開かれるものである。 その思惟の根本をなすのは, 存在に対する畏敬と責任の姿勢である。 例えば, 私たちの身体, 身体的に生きていること, あるいは, 私たちの環境, それによって私たちが形成され, また, 形成されながら形成する世界は, 私たちが, それに対し無条件に畏敬の念を抱き, 責任の意識をもつべきものとしてある。 すべてのものは, 互いに対する畏敬と責任をもって存在しているのである。 人間が, 自然と社会とを対象化し支配しようとする方向に近代の人間の在り方がある。 そのようにして, 人間は, 「 自然と社会との所有者にして主人 」 になろうとしたのである。 しかし, 真の主人は, 自らの民に奉仕し, これを保護せんとするものである。 自らを生んだ 「 自然と社会との奉仕者 」 にして守護者になることが人類のこれからの課題になる。 それ故, 環境の倫理の根柢をなすのは, 畏敬と責任の姿勢である。 科学と技術を推進する人間がこの姿勢を欠き, 単に物量的な豊かさのみを盲目的に追求していくとき, 人間は, 自らの生存とその土台とを, 自ら破壊することになるであろう。 真に創造的であり, 未来を開くのは, どこまでも, 存在への畏敬と責任の姿勢に基づいた, 科学や技術の制限的使用であり, また, 全人類一体となった社会の建設である。 |
URI: | http://hdl.handle.net/2433/49498 |
出現コレクション: | 第4号 |
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