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タイトル: <論文>フェデリコ・フェリーニのメタ映画再考 --映画における「全般的な」反省性について--
その他のタイトル: <Originals>Reconsidering Metacinema of Federico Fellini: The “General” Reflexivity in Cinema
著者: 神田, 育也  KAKEN_name
著者名の別形: KANDA, Ikuya
キーワード: フェリーニ
メタ映画
映画理論
フィクション論
Fellini
Metacinema
Film Theory
Fiction Theory
発行日: 20-Dec-2023
出版者: 京都大学大学院人間・環境学研究科
誌名: 人間・環境学
巻: 32
開始ページ: 17
終了ページ: 30
抄録: 本稿はイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニ(1920-93)のメタ映画を通じ,映画における反省性を再考するものである.数々のメタ映画を発表してきたフェリーニだが,その中でも,撮影現場や映画自体のカメラを開示する「装置の露呈」は,彼の十八番とも言うべき演出だった.『8 ½』では登場人物がセットで輪になって踊り,『ジンジャーとフレッド』ではTVスタジオの舞台裏が明かされ,『ローマ』などの偽ドキュメンタリー映画ではフェリーニが本人役として出演し,映画内の撮影班を監督した.本稿では「装置の露呈」を映画理論/フィクション論から考察し,フェリーニの反省性が,通常よりも広い射程を含んでいることを明らかにする.第1節では,反省性の古典であるクリスチャン・メッツの理論を批判的に検証した上で,フェリーニの反省性がメッツの枠組みを超えていることを,永井均の「超越論的なんちゃってビリティ」と共に論じる.第2節では,メッツの批判点を90年代以降に流行したフィクション論に繋げて考察する.ジュラール・ジュネットの「メタレプシス」を参照し,前節で論じたフェリーニの反省性が『インテルビスタ』でもなされていることを確認する.第3節では,フェリーニが「装置の露呈」を実践するのみならず,そこから新たなフィクションを立ち上げようとしていることを,三浦俊彦の「無限のメイクビリーブ階層」と関連させて論じる.以上の分析を通じて明らかとなるのは,映画における反省の「全般性」である.カメラ目線や本人出演などの明示的な反省性だけでなく,「あらゆる映画に反省性が当てはまりうる」という可能性こそが,フェリーニの反省性を語る上で重要だと結論づける.# ja
The aim of this essay is to rethink reflexivity in the cinema, focusing on the Italian filmmaker Federico Fellini (1920-1993). “Exposing the apparatus, ” is one of the most characteristic aspects of Felliniʼs films. Fellini showed characters dancing on a set in 8 ½, exposed the TV backstage in Ginger e Fred, and appeared as a director himself in Roma. This essay examines “exposing the apparatus” from the perspective of film/fiction theory, to argue that his reflexivity has a wider range. Section 1 reviews Christian Metzʼs theory of reflexivity. Drawing on Nagai Hitoshiʼs “Transcendental Nanchattebility, ” this section traces how E la Nave Va goes beyond Metzʼs framework and applies reflexivity to the “general” shots. Section 2 links Metz to the fiction theory that developed in the 1990s after the death of Metz. Using Gerard Genetteʼs “Metalepsis, ” this section finds that the “general” reflexivity is also in Intervista. Section 3 discusses how Fellini re-creates fiction again after his“exposing apparatus, ” referring to Miura Toshihikoʼs “Infinite levels of Make-believe.” I conclude by arguing that Felliniʼs reflexivity is not only the explicit, such as the look into the camera or the directorʼs cameo, but also implicit, to be applied to the general shots.
著作権等: ©2023 京都大学大学院人間・環境学研究科
URI: http://hdl.handle.net/2433/287643
出現コレクション:第32巻

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